2018年10月10日

蝶が飛んできた日

人間の記憶というのはふしぎなものだ。
 きのう女房とした喧嘩の原因は思い出せないのに、大昔のできごとは細かく鮮明に覚えている。
 前回、洗濯好きの女房のことを書いたら、かつて母親との間であった、ある洗濯がらみの情景がよみがえった。
 今からわずか75年ほど前のことにすぎないのだが、まるでおとぎ話のようだ。「お爺さんは山へ柴刈りに・・・」の世界と大して違わないことに驚く。 

 わしの母親は明治の生まれで、大正が昭和に変わるころに結婚した。母は家つき娘で、父が婿に入った。

 当時は女性が職業をもつこと自体一般的ではなかったが、母親は結婚後も仕事を辞めず、土曜の午後と日曜日しか昼は家にいなかった。
 食事の準備をはじめとする家事の多くは祖母がやっていたのだけれど、洗濯だけは老体にはこたえるのか、日曜日にまとめて母がやっていた。

 当時家族は8人。うち5人はケダモノみたいに野山を走りまわる子供たちだったから、1週間に出る洗濯ものはハンパな量ではなかった。
 実際、日曜日の午前に洗濯盥(たらい)に向かう母親のかたわらには、洗濯ものが文字どおり山を成していた。その山の光景がいまも眼の底にうかぶ。

 日曜日になると母親は必ず(天気のよい日はもちろん雨の日も風の日も)、大きな丸い木製の洗濯盥(たらい)の傍らにしゃがみこんで、シコシコと半日がかりで洗濯をした。たらいのなかには洗濯板(→冒頭の写真参照)が1枚入れてあり、その上でひたすら汚れものを手で板にこすりつけたり、もんだりして洗うのだ。

 そういう単純かつ原始的な作業を、母は毎日曜日に午前中いっぱい続けて、一家の一週間ぶんの汚れ物の山を片づけた。週日は外で働いて日曜はこれだから、大変だったろうと思う。
 そのうえ、育ててはもらったが継母だった祖母との関係も、家事を助けてもらっている負い目も加わり、精神的にも重いものがあったらしい。

 その頃わしは小学校へあがる少し前だった。まだ母親に甘えたい年頃だ。だが母親はほとんど家にいない。それだけに1日じゅう家にいる日曜日はうれしかった。できるだけ母親にまとわりついていたかった。

 でも、その日曜日がくると、母親は必ず朝から洗濯たらいの相手ばかりしている。虫の居所のわるいと、「汚れた水がかかるからもっと離れていなさい」といって叱られる。
 不満だった。

 たぶんそんな時だったのだと思う。
 天気のよい日で母は庭に出て洗濯をしており、わしはその母親の背後に、暖かい季節だったのだろう地べたにペタリと座りこんでいた。
 そして、何とはない欲求不満の気分を抱えながら、洗濯たらいに向かう母親の背をぼんやり眺めていた。手近に落ちていた枯れ枝を拾い上げて、母親の背をたたくように振りまわしていたように思う。

 そうしているうち、ふいにどこからか一匹の蝶が飛んでくるのが目に入った。そして母親の頭のうえを舞いはじめた。

 あまり大きくない白っぽい蝶で、どこといって特徴的なところはなかった。しかしふつうと違ったのは、母親の頭の上からいつまでも離れなかったことである。

 ふつう蝶は人にはあまり近づかないし、たまたま近づくことがあってもすぐに離れていく。
 ところがそのときの蝶は、母親の頭のうえ1メートルくらいのところで、いつまでもヒラヒラ、ヒラヒラと飛び回り続けたのである。

 子供ごころにもそのことをちょっと奇異に感じたわしは、気をひかれてその蝶をずっと注視していた。
 それもかなり長い時間で、しびれを切らした感じでそのこと(頭のうえを蝶が飛んでいること)を母親に知らせようと口を開きかけたとたん、母親がひょいと振り返った。そして体をねじったまま無言でしばらくわしを見つめていたが、ふいに立ち上がって近づいてくると、わしを地べたから抱き上げてぎゅっと抱きしめた。

 母親の着ていた割烹着がぬれていて、それが冷たかった感覚がいまも残っている。

          *

 何十年ぶりかでこの情景を思い出して、今なんとなくこんなことを思う。
 わしの母親は事情があって、生まれてまもなく産みの母親から引き離された。その産みの母親はその後数年で亡くなったと聞いている。
 あのとき庭で洗濯する母親の頭のうえへ飛んできた蝶は、ひょっとすると、その引き離されて亡くなった産みの母親だったのではないか・・・というようなことをぼんやりと考える。

 育ての親がどんなに良くしてくれても、実の母親に育てられなかった子供の心に忍びこむある種の孤独。
 それは、いつも母親とある距離をおかれて過ごしていた幼児のわしが持っていた孤独と、どこか通じるものがあるような気がする。

 母親は、自分が幼女のころに味わったのと同じ悲しみを、われ知らず自分の子供にも与えていた。そのことを気づかせるために、母親の母親、つまり産みの母親が蝶となってやってきたのではないか。・・・

 そんな浮世ばなれしてフェアリー話めいたことを、夢かまぼろしのようにぼんやりと思ったりするのは、わしもいよいよあの世が近くなったせいなのかもしれない。  


Posted by options at 18:17Comments(0)